おしらせ

未来へのメッセージ 「金波楼」専務・松本啓佑氏(S51回)

[2017-01-05]

<祖父、父と親子3代で九州学院を卒業した>

皆、野球部でした。私自身も小学校から野球をやっていたのですが、中学は普通に地元の日奈久中に行って野球をすると思っていました。6年生の時、父に「中学から九学に行ってこい」と言われ、急に中学受験の勉強を始めたわけです。父としてはやっぱり九学で学んでほしいという思いがあったようです。

<中学、高校の6年間、寮生活をした>

寮は、いろいろな部活の先輩がいたし、中学から高校までが一緒に生活をしていたので、たくさんの経験をすることができました。そうした中でできたつながりは今も大事にしています。

<野球部では内野手。高3の夏にチームが甲子園に出場した>

ベンチメンバーには入れませんでしたが、練習も宿舎も皆と一緒でした。試合(1回戦)は八回を終えて3点リードしていたので、スタンド応援の3年生は先にバスで待つことになり、移動しました。すると相手側スタンドが沸き始め、「同点だ」というので慌ててスタンドに戻ったのですが、すでに逆転されていて、負けてしまいました。ぼうぜんとしました。

<九学を卒業後、旅館業の修業をした>

いったん福岡県の大学に行ったのですが、元々、料理人になりたいという思いがありました。もちろん長男として将来的には金波楼を継がないといけないという気持ちがあり、料理を知っていることはプラスだろうという考えもありました。大学を中退してフリーター生活をしている中で、家族会議が開かれました。「何をしたいんだ」と詰問され、「金波楼を継ぎます」と。阿蘇の温泉旅館で2年間、接客などの修業をして、25歳の時に日奈久に戻りました。

<子どもの頃に比べて温泉街の閑散とした様子に危機感を募らせた>

旅館はほぼ半減し、若い後継者も多くない。旅館だけでなく、日奈久全体で何か手を打っていかないといけないと思い、近隣の農家などの同世代にも声をかけて「チーム・アイ・ラブ・日奈久」を結成しました。カーネーション風呂や日奈久特産のちくわを生かした「ちくわ焼き体験」などで、知名度も上がってきたと思っています。

news_20160527165637-thumb-645xauto-87371.jpg<しかし、熊本地震で日奈久断層帯に注目が集まったあおりで、同じ名前の日奈久温泉から客足が遠のいた>

「九州ふっこう割」などで来てくれたお客さんたちが日奈久のことを発信してくれたら、と思っています。当事者の自分たちがPRで言うより、そうしたお客さんの言葉は強い。地震直後には、九学時代の野球部仲間が「家族で泊まりに行こう」と声をかけあって来てくれたのもありがたかった。「人を助ける」という気持ちとつながりの強さは、ぜひ引き継いでいってほしいです。一生の財産になります。

(写真:左は父の寛三氏(S24回)右が松本啓佑氏)

■人物略歴

まつもと・けいすけ

1980年、八代市日奈久温泉の老舗木造旅館「金波楼」の長男として生まれる。九州学院中学、高校を卒業後、福岡県内の大学中退を経て25歳時に帰郷。2011年に地域おこしグループ「チーム・アイ・ラブ・日奈久」を会長として結成。昨年から日奈久温泉旅館組合の組合長も務めている。